―日本の印章史と細字家―
日本独特の文化である「印章」。国内最古の印として知られる「漢委奴国王印」は 3世紀ごろ中国から送られたとのことです。以来、印章は公文書の公印として使用されてきましたが、 次第に花押などの登場により簡略化されてしまいました。
近世となり、南蛮文化が伝来してくる折、商取引の中でポルトガルの慣習として 印章を押すことがあったようです。一説によると、南蛮品を好んだことで知られる織田信長が、 これに目をつけました。全国から100人の印判師を招集し、ポルトガル人の下で彫刻技術を1年間習わせます。 その中から優秀な3人を特に「細字(ほそじ)」の姓を与え、帯刀を許したとのことです。 別説では、信長ではなく豊臣秀吉が、3人の判木師に命じて「細字」の姓を与えたともいわれますが、 どちらにしても信長、秀吉といった天下人により選ばれたということには変わりありません。
「細字」の姓を受けた3人は、関が原の合戦後もお抱えの印判師として、一人は江戸へ、 一人は加賀百万石の前田家お抱えとして招かれました。もう一人の「細字」姓をもつ印判師こそが、 十八代続く「細字孔文堂」の初代として大阪城下に店を構え、徳川幕府の印章を一手に引き受けていました。 また、藩札などの原版作成にも携わっていた記録があります。
―現代へ―
やがて幕末・維新となると、幕府にかわる新政府より、新たに発足する日本銀行の 総裁印作成の依頼を受け、作成したとの伝承があります。現在の紙幣にも印されている「総裁之印」は、 このころから印影が変わることなく使い続けられています。
現在では、大阪の「細字」家は京都に移り、「細字孔文堂印舗」として中京区に店舗を構えています。 金沢の「細字印判店」と併せても、現在残る「細字」直系の印判師の店舗は全国で2店しか残っていません。
―そして今―
「細字孔文堂印舗」は、現在でも機械による彫刻は行なわず、すべて手彫りにて印章を仕上げています。 そのため作成に要する日数はかかりますが、唯一他にはない印影をもつ印章であることの証明となります。 印影も使用される方をイメージした独創性豊かなものであり、他の印章メーカーではまねのできない一品となります。
材質は、象牙から、水牛・黒水牛、柘材までご用意しておりますが、なにより象牙の印章をお薦めいたします。 印影の美しさはもとより、手指にすっとなじむ感覚は象牙ならではのものです。
店主は70歳を越えた今も現役で印章を彫り続けていますが、この420年の長い歴史をもつ老舗も、 後継者がいないため当代限りとなってしまいます。この機会に、織田・豊臣・徳川の時代から脈々と受け継がれた 伝統の技術を手にされてはいかがでしょうか。